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「帝塚山3丁目」やで!
ここからは住吉区、何となく街並が違うかな?

 実は「帝塚山3丁目」っていう住所は、今はないねん。
ちょっと前まであってんけど、帝塚山は1丁目が阿倍野区で、
2丁目以降が住吉区やったんや。
 阿倍野区はそのまま残ってんねんけど、
住吉区は帝塚山を東、中、西に分割したんやわ。
やっぱまぎらわしいもんな。
で地名のもとになった史跡が帝塚山西にあるよ。

「帝塚山古墳」
墳丘長120m、後円部直径57mの前方後円墳で築造当初の姿をほぼ伝え、
周濠のあともあり、円筒埴輪列や墳丘を覆う茸石などが確認された。
内部構造は不明、4世紀末〜5世紀初めの造営と考えられる。
 陪塚が沢山あったことと、帝塚という名称から天皇の墓という説や
大伴金村の墓という説があるが、埋葬者は不詳。
元は手塚山という文字だったとか。
 前方後円墳は大和王権のあかし、皇族か相当の実力者の墓には違い無い。

帝塚山そのものの住所が帝塚山西なんて可笑しいよな〜。


古墳東側入口


万代池西側もと熊野街道

こちらは帝塚山東、「万代池」(まんだいけ)やで!
顕彰碑の前がもと熊野街道。

 農業用のため池だと考えられるが、
「昔、聖徳太子がこの池に住む魔物を曼陀羅(まんだら)の力で
押さえたとの故事により曼陀羅池の名が起こり、後世これがなまって、
万代池となった」という伝承がある。

魔物ってどんなんかな〜。

次は「帝塚山4丁目」やで!


併用軌道から横断歩道を過ぎてホームに入る。
「帝塚山4丁目」からは専用軌道になる。

帝塚山はお金持ちの街って印象やけど、この辺はそうでもない。
大きなお屋敷があるのは明治〜大正にかけての別荘地で、住吉に近く
なると、古くからの街があるから、避暑には向かなかったんやろな。
実際は東天下茶屋のちょっと北から帝塚山3丁目あたりの西勾配地、
特に北畠近辺に大きな家が多い。

お屋敷は年々減ってる。
1件が立ち退くだけで大きな
マンションが建つからね。


4丁目駅からは上り神ノ木まで上り勾配。


大領中央公園、元古墳の北端あたりかな?

埋蔵文化財包蔵地
「二本松古墳跡」にほんまつこふんあと
 
 府立大阪病院付近に存在した古墳で、明治時代の土取り工事
で現在は失われてしまた。工事の際に、横穴式石室と石棺が
見つかり、副葬品として武器や馬具などが見つかった。
大阪市内では数少ない6世紀代の古墳で、近くに居住した
有力首長か、それに連なる人物の古墳であろう。
副葬品の一部は、東京国立博物館に収蔵されている。
(大阪文化財協会のHPから要約)

明治、大正の頃は古墳の土を
採取して壁土に使っていたんや。

「神須牟地神社」かみすむぢじんじゃ

延喜式内の古社であって、三の宮と称され、遠く二千年前の御創建である。 御祭神は、神産霊大神、手力雄命、天児屋根命。
本社は古来酒造の祖神として将又医薬の祖神として衆庶の信仰厚く、又文武両道の守 護神として御神徳顕著であった。
本社殿は慶長年間、兵火にかかったが豊臣の浪人であった多賀谷氏、外4名の協力で元和四年八月二十一日再建された。
元文元年九月、徳川幕府は本社および多米神社の廃滅に瀕せしを憂い幕吏菅廣房に命 じ「神須牟地社」「多米社」と刻せる石碑二基を双方の地に建立せしめられ、今尚現存している。
(以上、御由緒書きより)

ここも元は住吉大社の摂社。
新羅からの使者に酒を
ふるまったという故事がある。


東側鳥居


次は〜。


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