併用軌道に入る上町線、もと熊野街道と電車道が重なる。


街道を行く上町線、右は上りホーム

専用軌道を走ってきたチンチン電車は、また併用軌道に入って、
すぐに
「北 畠」停留所。

阿倍野界隈と違ってこの辺は住宅街。喧噪さは無いけど道が狭い。
車は軌道内を走らないと通れない。ホームの後ろの民家の前に
屋根とベンチがある。待合い?その間を自転車が走る。

ひかれないように、ね。。。

上町台地には難波宮跡をはじめ古代の様々な遺跡が残っている。
古墳については墳丘をとどめているものは帝塚山古墳ほか少ないが、数多くあったと考えられる。
紹介してきたように阿倍野にはそんな名残りが多い。
東天下茶屋から北畠までにある塚をまとめて紹介する。

「経 塚」

 王子神社から街道をくだると、晴名丘公園。「経塚」ってのがある。
聖徳太子が一字一石経をうめたとか空海が写経を埋めたとか・・・。

 江戸時代の地誌「摂津名所図会」では「大名塚」の北やや離れた
ところに墳丘と石柱が描かれているが、
いつのまにか石柱のみやや南に移されて墳丘は消滅。
平成7年にこの公園に移された。

石柱の裏には「了證」とある。人の名前?
みんなお墓の上に住んでんの知ってるのかな?


経 塚

「播磨塚」
 
南北朝のころ、住吉の合戦で南朝方の楠正行に山名、細川率いる
北朝方が敗れた。敗戦の中で播磨の大守の子、赤松貞範が率いる
播磨の将平が多く戦死した。
赤松は将兵の遺骨を納め塚を建て、「播磨塚」と名付け
部下の冥福を祈ったという。

「小町塚」
 古書「芦分船」に池で死んだ小野小町の塚と伝えられるが、
小町が阿倍野で死んだ記録はない。
小町の美貌や才能にあやかりたいという信仰の目的で
建てられたものというのが通説。

 府道30号線の西、住宅街のなかに二つ並んであるのは
別々の場所にあったのをここにまとめたから。
石碑だけ残して意味があるんやろか?


左が小町塚、右が播磨塚


「大名塚/伝北畠顕家墓」

「大名塚/伝北畠顕家墓」

 北畠顕家(あきいえ)は南北朝時代の武将で、
元服して直ぐ奥州で戦功をあげ陸奥守に任じられるほどの天才的武将。
朝廷が2つに別れてからは、南朝方につき各地で連戦した。

 西暦1338年、足利尊氏と阿倍野で戦い敗れ、
奮戦の末 顕家軍は全滅。
手兵全員とともに21才の若さで戦死した。(太平記による)
(敗戦後、堺の石津川までのがれて死んだという伝承もある)

現在の墓碑は1720年頃
並河誠所という人が建てたそうや。


「阿倍野神社」

「阿部野神社」

北畠親房(ちかふさ)・顕家(あきいえ)父子を祭る。明治15年創設。

 親房は27才で中納言、32才で大納言まで昇進した英才。
出家後、鎌倉幕府が滅亡。再び歴史の表舞台に登場し建武の中興、
南北朝時代に活躍する。
 陣中にあって職原抄(しょくげんしょう)(日本最初の法制史)、
神皇正統記(じんのうしょうとうき)等を著述した。
1354年、大和賀名生(あのう)で没した(62歳)。

神社はやたら新しいな。
 

もう姫松が近いよ。



下りホーム

あいかわらず併用軌道を走って「姫松」についた。

「古今集」の
「我見ても 久しくなりぬ住吉の 岸の姫松いく代経ぬらん」
の古歌に由来して名付けられた地名。住所にはない。
姫松っていうのは住吉大社の海岸沿いにあった松林のことやで。
近くの学校のグランドに老松が保護されているけど、数本しかない。

ちょっと休憩

姫松の交差点の北東角に
美味しいケーキ屋さんがあるよ。


店内はテイクアウトとティールームに分かれていて、お金持ちそうなおば?お嬢さんたちでいつもいっぱいやで。


こで阿倍野区にさようなら、次のからは住吉区やで!


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